HISTORY

沿革

1. 1864〜1896年 創立者の出生から小児保育院設立まで

  • 1864.05.10
    (元治元)
    創立者佐竹音次郎、土佐国幡多郡下田村竹島にて出生。
  • 1894.07.00
    (明治27)

    音次郎(31歳)、神奈川県腰越に「腰越医院」開業。

    内科、小児科の2科からなる。地域柄、結核転地療養者(富裕層)の治療にあたる一方、
    貧家の施療にも努める。当地の農漁村貧家における児童の惨めさを目の当たりにしたこ
    とは、「小児保育院」設立の直接原因となった。

  • 1896.07.20
    (明治29年)

    音次郎(33歳)、腰越医院に「小児保育院」併設。

    当時の孤児院は一般に5歳児以上を収容するのが通例であり、それに満たない乳幼児は
    里預けとされていた。これに対し音次郎は自らの経験からも子どもを母の手から放して
    はいけないとし、母子保護を考え、乳幼児から教育して所謂「三つ児魂」を培うことが
    子どもの将来の幸福に最も資することであると信じ、初生児から収容することにした。
    また、生みの子も育ての子も一切分け隔てなく愛育するという信条から、全ての収容児
    童は自らの愛児であるとし、孤児という名称を忌避し小児が保んじて育つようにとの願
    いを込め「小児保育院」と命名した。「保育」という語をわが国において初めて用いた
    ものである。なお、院内には乳幼児のほか、その母、あるいは、独居老人や知的障害者
    なども許す限り収容することとし、すべて経費は、自己の医業収入により賄うこととした。

    最初期の家族写真の一つ。創立当初
    より乳幼児及び母子収容を行う。

2. 1899〜1906 鎌倉小児保育園成立まで

  • 1899.11.00
    (明治32)

    保育院維持費補助のため生産部を設け歯磨粉「保育散」の製造販売を開始する。

    収容児童の増加に伴い、生業たる医業の収益が追いつかず、この困難打開
    のため音次郎が思い立った窮余の一策である。なお、「保育散」製造販売
    に伴い作成した趣意書は本院がはじめて世に出した文書である。

  • 1902.06.16
    (明治35年)

    音次郎夫妻、鎌倉美以教会牧師山鹿旗之進より受洗。

    これより小児保育院の日課に基督教諸行事が入る。

  • 0000.07.00

    「東京女囚携帯乳児保育会」(板垣退助伯爵夫人会長)結成。

    従来、監獄内で哺育されていた女史受刑者の乳児たちが分離保育されることとなり、
    小児保育院が委嘱される。この末で収容児童は33名となり、園舎が手狭になった。
    腰越津村長井上安次郎は、これに同情、音次郎に保育専用舎建設の用材寄付を申し出る。
    そのための建設資金調達のため、東京の吐鳳堂より「結核征伐」(板垣退助伯爵等序文)
    を小冊子として出版、音次郎は自ら、その訪問販売に努める。

    東京女囚携帯乳児保育会から委託
    を受け、乳児が多くなる。

  • 0000.10.13

    内村鑑三の紹介で理想団(黒岩涙香主宰)定例懇談会で講演、あわせて「結核征伐」販売。

    このときの音次郎の講演に感銘した「万朝報」記者堺枯川(利彦)
    は、小児保育院訪問、同新聞10周年記念号に特別報道。この記事
    を感慨深く読み、後日、鎌倉保育園を訪ね、音次郎の事業に感激
    し、協力を誓い通した人々に後の財団鎌倉保育園の評議員となる
    益富政助、宮沢六郎、山縣五十雄などの諸氏がいる。

  • 1903.06.00
    (明治36年)
    保育専用舎(10坪)落成。
  • 0000.10.00

    音次郎疾患再発し、院の経済は崩壊寸前に陥る。

    この時、以前、その表札に引かれて小児保育院を訪れ、音次郎から事業の趣旨を聞いていた旧高鍋藩主秋月 新太郎がこの様を知り痛く同情し、直ちに大蔵大臣子爵曽根荒助、円覚寺派管長釈宗演らと語らって急場の 資として揮毫の書を送り、慈善書画会の開催を音次郎に促す。これにより、第1回の書画会を開き、金300円 の収益を得て一時の急場を凌ぐことができた。。

  • 1905.00.00
    (明治38年)

    音次郎(42歳)、本元旦(日曜日)より毛筆による日記を認め始める。

    本日誌は、晩年昭和14年師走まで、保育園内外のことから、財団や各施設の経営管理に至るまで、自らに悩み考えた35年の諸事が29冊の和罫紙にまとめられており、昭和50年、法人創立80周記念に中央公論より「日誌佐竹音次郎」として出版された。

  • 0000.08.19
    医業を廃止し、保育事業に専念することを決意。
    翌月、医院を義姉沖本幸子に譲渡。
  • 1906.05.30
    (明治39年)

    鎌倉町大町607番地に新園舎竣工、移転。収容児童40名、「鎌倉小児保育園」と改称。

    建物は3棟からなり、うち2棟は木造二階建の大きな瓦屋であり、平塚にあった古い宿屋と庄屋とを買い取り、保育園向けに建て直したものであった。母屋であるうち1棟は、1階が事務室、応接間、男児及び男子職員(男子家族)居室、台所、大食堂、浴場、便所その他、2階は雨天時などの場合の児童の遊技場として使用した。南向きに建つもう一棟の瓦屋は、1階が約50畳の保育室兼女児及び女子職員(女子家族)居室、二階は40畳ばかりの広間を4室に区切り、集会室、静養室などに用いた。他の1棟は以前、井上保次郎氏から用材の寄附を受けて築造した家屋にその後6畳間を造作したものを腰越から移転したもので、病室・伝染病隔離室として使用した。3棟あわせ約180坪、総建築費はおよそ3,600円であった。   音次郎は小児保育園における「家族」を血縁や戸籍面とにかかわりなく、各人がすべて相互に「保育園の家族」 であるとし、自らを「園父」、妻のくまを「園母」、男の長者は「おじさん」あるいは「おにいさん」、女の長者は「おばさん」あるいは「おねえさん」、そして、少者はすべて弟または妹なりとした(このような呼称に基づく呼び合いは鎌倉保育園の伝統の一つとして第二次世界大戦後まで引き継がれた)。又、以上の理由から、園内においては、一人の雇人も、また、一か条の規則書をも存在しないものとし、故に、保育園の事業は自ずから役人的あるいは事務的におこなわれず、純然たる一般の家庭生活に外ならないとした。さら に 音次郎は保育園は神の聖業であり、ここに暮らす家族には、一般の孤児院のように、救う側の者と救われる側の者との二つは存在せず、園父の音次郎をはじめ皆一同救われる側の者として存在し、保育園に暮らす者たちとして絶対平等であるとした。

    移転落成した新園舎(鎌倉小児保育園)明治39年6月頃撮影

3. 1910〜1920 財団法人鎌倉保育園成立まで

  • 1910.08.00
    (明治43年)
    鎌倉、腰越、片瀬在住の貴婦人等による本園後援会組織され、慈善音楽会が催される(県下最初の後援会)。
  • 1911.11.07
    (明治44年)

    内務省地方局が開催した「第一回育児協議会」にて、社会事業家として公式の席上で初めて発言。

    本会議は、同省地方局長水野錬太郎が全国の孤児院長に招集を呼びかけ実現したもので、同月4日から途中に日曜を挟んで7日まで実質3日間の会議(司会 留岡幸助)であった。在阪の音次郎に代わり、くまが全日程出席したが、この日(7日)の午後1時半に新橋に到着した音次郎は直ちに内務省に赴き、辛くも本会議に間に合う。この際、音次郎の先達である岡山孤児院の石井十次が国立孤児院化・民間施設奉還を論じたのに対し、音次郎は社会から一人の孤児をも、また、一つの孤児院をも共に一日も早く姿を消すことを願うものとし、しかし、そのことは直ちに困難であろうから、孤児というものが社会から理解される土壌作りを訴え、そのためには小規模の保育院を各地に、また各家庭を孤児のために開放することが孤児への社会の関心普及のため最も肝要であるとする旨主張し、石井に真っ向から反駁した。このときの音次郎の熱弁に心打たれた静岡ホーム長松井豊吉は、本会終了の帰途、鎌倉小児保育園を訪ね、音次郎と暫し会談する。音次郎の徹底した一視同仁的人間観と保育園での血縁・地縁を超えた「家族」のあり様に驚愕する。

  • 1913.02.18
    (大正2年)
    鎌倉郡補助金交付始まる。
  • 0000.04.30

    鎌倉小児保育園「旅順支部」設立(旅順市外田家屯)。

    設立直後の旅順支部

  • 0000.08.11

    鎌倉小児保育園「京城支部」設立(京城府漢江通)。

    設立直後の京城支部

  • 0000.11.09

    旅順・京城支部設立を披露するとともに創立17年感謝記念会挙行(鎌倉)。

    あわせて、このときより、勤労家庭児童の昼間保育奉仕(無料)開始する。いわゆる託児所の開設であり、後に保育所、現在一般に保育園と称する事業のはじめかと考えられる。これは後に台北支部に幼稚園(愛育幼稚園)が併設されるまで続く。

  • 0000.12.08
    神奈川県助成金始まる。
  • 1915.01.20
    (大正4年)

    鎌倉小児保育園「台北支部」設立(台北八甲庄)。

    設立直後の台北支部

  • 1916.05.30
    (大正5年)
    本園において鎌倉移転満10年感謝会開催。
  • 1918.04.04
    (大正7年)

    財団法人設立準備評議員会結成。

    鎌倉居住の永年後援者10名をもって組織。

  • 1919.10.16
    (大正8年)

    法人設立準備第6回評議員会を開き、前回より評議中の寄附行為修正審議を諮る。

    「本財團ノ理事及理事補ハ一切私有財産ヲ有セズ又所有シタル場合ハ其全部ヲ本財團ニ捧ゲテ奉仕スルモノトス」という設立寄附行為第二条後段部分について、非現実的理想案として反対多く、音次郎はこれだけは譲れないとし、断食をしてまでこの修正を許容しなかった。

  • 1920.01.29
    (大正9年)

    財団法人設立認可。財団法人「鎌倉保育園」と改称。
    音次郎(57歳)、初代理事に就任。寄附総額112,010円

    わが国の現存社会福祉施設の法人施設としては最も古いものの一つである。当該寄附行為には、先に記した役員の私有財産所持禁止規定に加え、財団の目的を「汎ク不遇ノ小児ヲ保育教養シテ各其所ヲ得シムルヲ以テ目的トス 但シ必要ノ場合ニ限リ、園児ニ関係アル婦人及老人ヲ収容スルコトアルベシ」とする旨の規定(第3条)がある。これをもっては、婦人や老人まで収容することになり、間口の広げすぎであるとの異論が強かったが、音次郎は神の聖業意識を土台として、やむにやまれぬ無差別平等の愛の理念からこれまで保育園事業を行ってきたのであるから、収容者を児童のみに限定することはできないとし、断乎、この削除にも応じなかった。

    財団法人設立許可書

  • 0000.02.18
    第1回評議員会開催。
  • 0000.02.20
    法人登記完了。
  • 0000.02.21
    宮内省より第1回紀元節下賜金をいただく。この時から毎年下賜。

4. 1922〜1932 大連分園設立まで

  • 1922.08.08
    (大正11)

    鎌倉保育園創立25周年感謝会開催。

    音次郎が前年11月から執筆していた「鎌倉保育園25年史」を理事補益富政助が再編し、「聖愛」と改題し、来会者に寄贈。

  • 1923.02.26
    (大正12)
    評議員会(第6回)にて、佐竹昇理事補に就任。
  • 0000.09.01
  • 1926.02.11
    (大正15)
    音次郎(63歳)、神奈川県知事表彰。
  • 0000.07.30
  • 0000.09.29
    神奈川県知事宛乳児母子園設立願提出、関東州始政20周年記念に音次郎長官表彰。
  • 1928.01.03
    (昭和3)
    鎌倉保育園園の友会結成(出身者と旧職員とで構成)
  • 0000.12.30
    本園に対し、神奈川県匡済会の補助金交付始まる。
  • 1929.02.11
    (昭和4)
  • 1930.03.03
    (昭和5)
    音次郎(67歳)、評議員会(第14回)にて理事補曽田嘉伊智に理事を譲り、寄附行為の定めるところにより理事補となる。但し、新理事京城を離れず、音次郎理事代理を委嘱され、本部において引き続き園務にあたる。
  • 0000.07.28
  • 1931.01.30
    (昭和6)
    音次郎(68歳)、神奈川県社会事業協会評議員委嘱。
  • 0000.03.28
    音次郎理事代理を辞し、佐竹昇同職に就任。
  • 1932.09.06
    (昭和7)

5. 1933〜1945 終戦まで

  • 1933.08.19
    (昭和8)
  • 0000.11.00
    音次郎(70歳)、神奈川県社会事業協会評議員委嘱。
  • 1935.04.01
    (昭和10)
    台北支部に母子寮設立。
  • 0000.10.23
    音次郎、中央社会事業協会(総裁高松宮)主宰全国社会事業大会において社会事業功労者表彰。
  • 1938.05.27
    (昭和13)
    評議員会(第22回)にて、音次郎(75歳)、北支・中支に新支部設置計画を提案。昇理事夫妻、視察に派遣さる。
  • 0000.10.21
  • 1940.06.29
    (昭和15)
  • 0000.08.16
  • 0000.08.19
    鎌倉美以教会にて音次郎の葬儀行われる(園葬)。
  • 0000.08.20
    音次郎追悼集「松籟」刊行。
  • 1945.08.15
    (昭和20)

6. 1945〜1965 引き揚げから養護施設鎌倉保育園新園舎落成まで

  • 1945.10.19
    (昭和20)
  • 1946.11.19
    (昭和21)
  • 1948.01.01
    (昭和23)
    児童福祉法の施行により、財団法人鎌倉保育園は「養護施設」として認可される。戦後、疲弊による著しい要援護者の増加により、従来あった成人保護部門をあらたに「生活保護部」とする。
  • 1952.05.21
    (昭和24)
    社会福祉事業法の施行により、財団法人から社会福祉法人へ変更認可される。理事5名、監事1名、佐竹昇初代理事長に就任。
  • 0000.06.21
    改正生活保護法の施行により生活保護部は救援施設として認可される。
  • 1957.08.21
    (昭和32)
  • 1960.06.04
    (昭和35)
    創立65周年記念感謝会を挙行。
  • 0000.10.21
    佐竹昇、藍綬褒章授与。
  • 1961.10.04
    (昭和36)
    高座郡綾瀬町寺尾大字2370番地に鎌倉保育園生活保護部を分離し、綾瀬分園を設置。建坪230坪(定員30名)
  • 1963.07.04
    (昭和37)
    佐竹正道、綾瀬分園の初代園長に就任。
  • 1963.07.21
    (昭和38)
  • 1964.04.21
    (昭和39)
  • 0000.06.21
    精神薄弱者福祉法の施行により綾瀬ホームは、救護施設から精神薄弱者援護施設として変更認可される(定員70名)
  • 1965.09.27
    (昭和40)

7. 1966〜1996 100周年を迎えるまで

  • 1966.10.01
    (昭和41)
  • 1967.02.01
    (昭和42)
  • 1968.05.01
    (昭和43)
    佐竹昇、神奈川県社会福祉協議会会長就任。
  • 1969.11.01
    (昭和44)
  • 1971.04.01
    (昭和46)
    佐竹敬、綾瀬ホーム、園長就任。
  • 1973.05.01
    (昭和48)
    佐竹昇歿、享年73歳。佐竹信一理事長並びに養護施設鎌倉保育園園長就任。
  • 1973.05.01
    (昭和48)
    佐竹昇歿、享年73歳。佐竹信一理事長並びに養護施設鎌倉保育園園長就任。
  • 1974.04.01
    (昭和49)
    綾瀬ホーム、優良民間社会福祉施設として御下賜金をいただく。
  • 1975.03.01
    (昭和50)
    綾瀬ホーム、通園施設併設認可(定員8名)。
  • 1976.06.10
    (昭和50)
  • 1977.05.10
    (昭和52)
    法人理事会において高齢の知的障害者援護施設の建設を議決。
  • 1978.09.10
    (昭和53)
    上記援護施設建設用地として、地権者見上尚志氏並びに比留川栄氏と土地賃貸借契約を締結する。
  • 1979.07.10
    (昭和54)
  • 1981.05.10
    (昭和56)
    綾瀬ホーム、「生活ホーム」設置(定員4名)。
  • 1983.07.10
    (昭和58)
    中村支部若草園園長西久子退任、青木浩園長就任。
  • 1985.03.10
    (昭和60)
    養護施設鎌倉保育園、園舎修繕工事完了。
  • 1986.11.19
    (昭和61)
    創立90周年記念感謝式を挙行、併せて「愛に生きる」(佐竹伸著)出版記念式をおこなう。
  • 1989.05.19
    (昭和64)
    法人理事会において知的障害者更生施設「綾瀬ホーム」の全面移転改築を議決。
  • 1979.12.22
  • 1993.04.19
    (平成5)
    綾瀬ホーム、移転新築、竣工式を挙行。入所定員100名、通所定員20名
  • 1994.07.19
    (平成6)
    佐竹順子、さがみ野ホーム園長就任。
  • 1994.08.19
    綾瀬ホームの生活ホーム「ニューハイムひまわり」(定員4名)の新設承認に併せ「ハイムひまわり」(旧聖愛寮・定員4名)の変更が承認される。
  • 1995.01.19
    (平成7)
    佐竹信一歿、享年67歳。仲戸川三郎理事長、佐竹順養護施設鎌倉保育園園長就任。
  • 1996.03.11
    (平成8)
    社会福祉法人栄光会が高知県に設立認可され、養護施設若草園の経営が当法人より同新法人へ引き継がれる。新法人の理事長に廣井泰延就任。
  • 1994.04.29
    佐竹敬、藍綬褒章授与。
  • 1994.06.02
    仲戸川三郎理事長退任、佐竹順理事長就任。併せて、この時の理事会にて法人名を「鎌倉保育園」から「鎌倉保育の園」と変更することを決議する。
  • 1994.07.18
    社会福祉法人鎌倉保育園創立百周記念感謝の集い挙行。「表と写真に見る百年史」発行。

8. 1997〜2007 現在まで

  • 1997.04.19
    (平成9)
    生活ホーム「コマチハイツ」開設(定員4名)
  • 1999.09.02
    (平成11)
    社会福祉法人栄光会が高知県に設立認可され、養護施設若草園の経営が当法人より同新法人へ引き継がれる。新法人の理事長に廣井泰延就任。
  • 1994.09.08
    神奈川県知事から鎌倉保育園の施設運営及び処遇の改善について勧告。
  • 1994.11.25
    小原勉(元中央児童相談所長)理事長に就任。
  • 2000.09.04
    (平成12)
    神奈川県福祉部長から「鎌倉保育園の施設運営及び入所児童の処遇改善通知」を受理した。
  • 2001.04.01
    (平成13)
    さがみ野ホーム通所部定員10人→15人の定員増に認可される。
  • 2002.01.15
    (平成14)
    理事会にて「鎌倉保育の園」より「聖音会」と変更することを決議する。名称にはキリスト教の「聖」、創設者佐竹音次郎より「音」を使用した。
  • 1994.06.03
    児童養護施設「鎌倉保育園」より「鎌倉児童ホーム」に名称変更。評議員会を設置する。
  • 1994.06.30
    佐竹順子、さがみ野ホーム、園長辞職。
  • 1994.07.01
    佐竹昇平、さがみ野ホーム、園長就任。
  • 1994.10.07
    佐竹正道歿、享年73歳。
  • 2003.04.01
    (平成15)
    鎌倉児童ホーム新園舎完成。グループホーム「ゆめハイツ」開設(定員4名)支援費制度開始
  • 1994.05.14
    綾瀬市知的障害児者地域相談室開設(綾瀬ホーム、さがみ野ホームから職員派遣)
  • 1994.10.30
    綾瀬ホーム、住環境改善のため入所定員数の変更(定員100名→90名)
  • 1994.11.26
    法人顧問に鎌倉教会元牧師高田彰就任。
  • 2004.11.03
    (平成16)
    佐竹敬、瑞宝双光章授与。
  • 2005.03.31
    (平成17)
    大久保稔、鎌倉児童ホーム、園長辞職。
  • 1994.04.01
    渡邊優、鎌倉児童ホーム、園長就任。
  • 2006.04.01
    (平成18)
    障害者自立支援法施行
  • 1994.10.01
    障害者自立支援法施行により短期入所事業、グループホーム事業、ケアホーム事業が始まる
  • 2007.04.31
    (平成19)
    綾瀬ホーム、男女別棟に組織編成さがみ野ホーム・綾瀬ホームの新体系移行を追加等